古楽研究会に寄せて

会の名称と主旨についてのあらまし と 古楽演奏を志す方々への一言

鍋島 元子

<自分を通して語れるために>
古楽の魅力に惹かれ、その美を求めて、専門的な知識の集積と演奏技術の修練を志す人々は、最近日本にも増えており、形だけを学び真似事をやって愉快であればそれでよいという程度では飽き足りない、という真剣な態度が強く表れるようになってきたようです。
遠い外国の、それも日本とは全く異なる伝統をもつ西欧諸国の、しかも、200年以上も古い文化を吸収し―自分を通して語れる程に消化し―そして、これを現在に生かすこと、日本国という、この仕事にとって必ずしも恵まれていない環境の中で生かすことは、一時の好奇心程度ではとり組めない仕事です。各人の内的必然性に支えられなければ、この種の芸術の伝達者には仲々なり得ないでしょう。例えばこういうことです。存在を歴史的に捉えること、地域別の独自の世界を捉えること、等に関心を持ち、ある時は挫折し、しかしやっぱり、自分の内面との親近性を感じ、この種の音楽と自分の心との関りを否定できない、何か自分なりの欲求を確め、美しさを確信し深く惹かれるところがあって、音楽することが、生活のアクセサリではなく、内部に定着している・・・・・・といったようなことです。

<楽しめばよいか>
「理屈はぬきに、無心に楽しめばよい」というのも、又一面の真実ですが、我々にあれ程価値ある遺産を残し、美を教え、それを通じて紛れもなく彼らの人間そのものを語っているあの過去の巨匠たちは、いつも「楽しむ」気持ちだけで仕事をしたのでしょうか。時にはもっと止むに止まれぬものを語り、魂の深層を作品はあばき出しているのではないでしょうか。美しいものも醜いものもです。正にこのことが美しいのですが・・・・・・。
音楽が暇な貴族達のたしなみであった面だけが、遊戯性だけが時には強調され過ぎ、バロック音楽に対する偏見を持つ方も多いかも知れません。しかしそれは一面でした。一人の音楽家の中にさえ、全く多様な音楽があったのがふつうです。所謂バロック時代は、普遍的な人間感情や思想というもの以外に、作曲家が「一個人としての自己表現」を音楽作品に託すことも顕著になった時期でした。民族性の強調と共にこのことは、あの時代を語る時に見落とせないポイントです。

<心から心へ>
人間の本質が変わらぬ限り、今我々の知り得る諸性格、共通の心の体験も、過去に繰り返し存在したことでしょう。自明のことですが、ここに、人間同士の共感というものが確かめられ、何百年昔の存在でも身近に想像することが可能な理由があります。ベートーヴェンの名高い言葉「心よりいで再び心に帰らんことを」に、創造者の心と、コミュニケーションを求める人間の本能とが語られています。古楽に携わる人々が、この過去の人物や作品を「身近に感ずる」ということの真の意味を、夫々に意識することは、非常に大切なことと私は思います。

<自分で行う「解釈」>
大体楽譜というものは、立体的な音響像の記録として充分とはいえないものですが、特に古典期までの楽譜には、テンポや表情の細かい指示も殆んどなく、解釈の領域は自ずと拡がってきます。作品の広範な背景の中、どこに解釈の重要な鍵がひそむか・・・・・・これについては常に多くの問題にすべき点が見出されねばなりません。当時の習慣を含む史実の検討の他、楽曲分析や、譜面の背後のイデーを探ること、当時の著作に耳傾けることも、解釈の重要な手続きとなります。私について言えば、これらは曲に惚れた場合、そして関心がついつい湧き出た場合でなければ出来ず、義務的な忠誠心ではなかなか続きません。
ところで我々の対象は、ルネサンス後期を含めて、一応1500年から1800年の音楽ですが、これはほぼバッハから今日までと同じ、広範且つ多様な時代にわたっています。これ全部を手っとり早く理解する方法などというものはありません。代表的な作曲家、代表的な曲種から手をつけ、音とのつき合いを深くして、一つの音楽作品の全体像を自力でつかめるように、なるべく経験を重ねていくしかありません。しかしこれこそは音楽を愛する人々にとって、真に倦むことのない、楽しみ多い仕事であると思います。

<Origo et Practica> ―出典の検討と演奏実践―
我々のOrigo et Practica は、この時代(1500~1800年)の音楽への愛着、楽器への興味などから入り、これとの交際を深めたい、自分の精神活動との結びつきの中に置きたいと感ずる仲間のための場所です。習う方も意図がはっきりしていることが希まれます。バロックの黎明期に出来たフィレンツェのグループのように、カメラータ(仲間)と称してもよいわけでした。しかし、Origo et Practica(英語 origin or source and practice)、(源泉、出所、原典研究と実践)としたのは、本や楽譜に限らず、広義に作品をあるいは作曲家を生んだバックグラウンドを、つまりsourceを辿ろうとする姿勢と共に、音楽はなんといっても音の出る現場がすべてを語る時ですので、このpractice(実際・実行)とのバランスを計ることをモットーとしたいからでした。”Musicologie in de praktijk brengen”「音楽学を実践に」という、ヨーロッパ第一線のバロック音楽家のモットーにも因んでいます。

<グループを通じての修業>
―美を知ること・芸術は義務からでなく本能的欲求から―
遠隔地クラスとマスタークラスでは個人レッスンも多くなりますが、Origo et Practica が原則としてグループレッスンの形をとるのは、クラス共通事項の話や、講師・生徒たちの双方からの感想の述べ合いのためでもあり、また、演奏の際、教師以外にも聴き手をもち、いつも人前で、はっきりしたものを出すという修練にもなるためです。同時にこれは仲間もでき、多くの作品をおぼえ、一人では続けにくい事も楽しく学び易くなり、利点も多いようです。解釈の問題、文献あさり、楽譜、テキストの入手などに際して助け合うこともできます。
美しい演奏とは勉強だけでは生まれないものですが、こんな問題、芸術について美について語りあう、教師とのファミリアな交換の機会をもつことをもこの会では重視しています。知識の摂取と、自分が何かを生み出すこととのバランス、それから自分の判断、主張をもつこと、しかし他人のそれにもオープンでいることとのバランスも、この修業には重要であることを感じ合っていきたいものです。
この種の研究会が陥りがちな危険は、単なる情報交換の場となり、和気あいあいだけが目的となり、レッスンも惰性的に続くことです。これまでは幸いそのような兆候は見られませんでしたが、ともあれ、「何故奏くか」「奏きたいから」「美しいから」という根源的な衝動が全ての研究活動の基となるよう、これなしに高度な知識と技術を積み上げることの虚しさを留意していたいものです。
多くを学ぼうとする若い人々に心から期待をよせ乍ら、私の結びのひとことを、画家 岸田劉生氏の言葉に託します。ここでいう「あたらしき」とは勿論「創造的な」を意味します。

新しきものは 概念より生れず
「心」より生るるものこそ
永遠の新鮮なり

1979.3. 市ヶ谷にて

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